楽天銀行

株式会社 素浪人 映画部

第一営業支店 支店番号 251

口座番号 7194126

カ)スロウニンエイガブ

三井住友銀行

下井草支店

普通 6616988

カ)スロウニン

ゆうちょ銀行

口座名称 (漢字) 株式会社 素浪人

口座名称(カナ) カ)スロウニン

口座記号番号 00150-4-587012

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店名 〇一九店

預金種目 当座

口座番号 0587012


映画 黒島を忘れない SNSインフォメーション

イントロダクション

私たち日本人が本来、他人のために犠牲になることを厭わない精神性を持つ民族であることを、あらためて視聴者に気付かせてくれるのです。特攻はもちろん、戦争から生き残った青年兵士たちの大多数が感じていたと言われる、生き残ってしまったことによる「罪悪感」は、戦後の日本社会で元日本兵たちの口を重く閉ざしました。戦後生まれの私たち現 代人は、正当な歴史的検証もできないまま、元日本兵の背中に読み取った日本人特有とも言える美徳感を受 け継ぎながら、世界の平和に向けた活動に貢献して来たのです。しかし残念ながら、言い訳を潔しとしない国 民性は他国の人々に対し、誤解を招く状況も生み出して来たと言えます。  本当に残念なことですが、今でも世界中いたる所で戦争は続いています。

世界中の愚かな人間が繰り返す争いの歴史に異議を唱えるために、日本人独自の視点で新たな「不戦の誓 い」を世界に発信する時期に、今こそ差し掛かって来ていると言えるのではないでしょうか。本作は現代の日 本人にとっての道標となる意義深い作品になると自負しています。弊社素浪人では2013年に「ペコロスの母に会いに行く」という映画で、社会問題となっている介護について暗いイメージがつきまとう老人介護を、明るく、そしてやさしく描くことで好評を得ました。

そして「ペコロス」は長崎の片隅で自費出版500部からはじまり、口コミ、SNSでの拡散で多くの人々の ご縁に支持されて成立した作品でもありました。現在も全国各地の劇場で上映が続いています。そこで培った 多く人々のご縁に向けて映画「黒島を忘れない」を提案していきたいと考えています。

ストーリー

----時は昭和二十年、太平洋戦争末期。鹿児島沖合70Kmに浮かぶ、人口二百人にも満たない孤島・黒島に一機の特攻機が不時着したところから物語は始まる。その飛行機に搭乗していた柴田少尉は全身に大火傷を負い、島民の看病を受けることになる。
”軍神”である柴田少尉に、大事に蓄えていた白米をかき集め、粥にして食べさせるなど、島民たちは、懸命に介護する。
けれども島に十分な食料も医療用具もなく、柴田の回復は絶望的であった。

 そんな折、新たな不時着機が飛来する。島民に無傷で救出された特攻隊員・安部少尉は、先に出撃した戦友である柴田少尉が、重傷を得てこの島にいることに驚く。戦友に十分な医療用具を届けたいという思いと、もう一度祖国の為に散りたいという思いから、鹿児島への帰還を計画する安部。けれども、島には一艘の伝馬船の他には海をわたる手段はなく、かつ周りは魔海と呼ばれる潮流と風に阻まれていた。独力での帰還が不可能と知った彼は、島民の協力を得るために交渉を重ねるが、なかなか理解を得ることは出来ない。 その後、さらに不時着してきた江名少尉らも加えて、島民と特攻隊員らの静かで奇妙な日々が流れていく。その上空を今日も爆弾を積んだB29の編隊が本土へ向けて飛んで行く。そして同志たちの特攻機は沖縄の空へと消えてゆく。

様々な出会いの中で、島の人間の温かみと己の宿命との間で揺れ動く特攻隊員たち。彼らの運命や如何に。 その時代を確かに生きた人間たちの思いが、戦後七十年たった今も黒島にそびえる特攻平和観音像へと連なっている。

原作者よりのメッセージ

    小林広司、1957年神奈川県大磯町生まれ。

    親の愛を沢山注がれながら南足柄市で育ち、15歳で映画監督を志す。県立外語短大付属高校卒業。日大芸術学部文芸学科入学後、松竹シナリオ研究所第1期卒。松竹第一興行(株)、千駄ヶ谷Jazz Bar『PeterCat』など、日芸で勉強する間を惜しむように?バイトやバンド活動に明け暮れる。

    1980年初頭、自主映画『竜二』製作・公開に関わり、1991年、Vシネマ『ヘイ・オイラーズ』で監督デビュー。1992年、WOWOW『J・Movie・Wars』シリーズに参加。1996年、劇場映画『林檎のうさぎ』で監督デビューした。プロデュース作品には『萌の朱雀』(河瀬直美監督作品・1997年・第50回カンヌ国際映画祭カメラドール〈新人監督賞〉受賞) 2004年、フジテレビの終戦記念スペシャル『黒島を忘れない』を演出。 2008年11月25日、肺がんで死去。


    1962年東京都目黒区八雲生まれ。1981年、19歳の一人旅アメリカ旅行から帰り、仲間が集まっていた『PeterCat』に行く。そこで小林広司から「映画館でアルバイトしないか?」と、強力に誘われ新宿松竹で働きはじめる。1985年、フリーになり、シネマトリックス社、スポニチクリエイツ社など、映像、出版テレビ番組制作に携わる。1986年、小林広司と結婚。一男一女を出産。子育てしながら映画製作経理なども行い、2000年から福祉業界で働く。

    2004年にテレビ番組のディレクターをした夫。一時間の番組には収めきれなった事実を書き残そうと執筆にとりかかること4年。肺がんを患いながらも、書こうとする。その 姿を私は最後まで見て見てきました。

    「俺は、この黒島の話を作品にするために生まれてきたのかもしれない」 2か月半に及ぶ編集作業中につぶやいた言葉。 1945年、黒島での出来事を「人の思い」として伝えるために書き続けました。 意識が朦朧とするときも、「ペン!」 と言ったり。彼の晩年は、黒島を忘れないを脱稿させるためだけにあったように思います。

    遺稿を完成させ出版できたことは、彼の思いに心を動かされた仲間たちのお陰でした。 そして、今度は映画化に向かって走り出しました。それもすべてご縁のつながり。かつて夫と仕事をした仲間たちが、目に見えない不思議な力に引き寄せられるように集結してくれました。そして、志しを同じくする新たな映画人たちとの出会いを重ね、今、私はかけがえのない時間、感動の中に生きています。

    映画『黒島を忘れない』が、スクリーンで上映されたとき、 「はい!オッケー」と、拍手で喜ぶ小林広司 が瞳の中に見られるような作品になると信じています。


原作者よりのメッセージ

    1963年、鹿児島県に産まれる。広島大学文学部在席中に、時代劇の好きだった父の影響で、自主映画を撮り始める。大 学を中退して上京し、大蔵映画にて助監督となる。金子修介監督、堤幸彦監督、篠田正浩監督等、数多くの商業映画の助監督を経て、潰れかけた駅伝部を復活させる青春 群像劇「ekiden[駅伝]」2000にて監督デビューする。2013 南柱根監督「空と海のあいだ」2014のプロ デューサーでもある

    井手雅人に師事。助監督を経て、1978年『ダイナマイトどんどん』で脚本家デビュー。1982年『疑惑』で毎日映画コン クール脚本賞を、1994年『忠臣蔵外伝 四谷怪談』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。テレビでも脚本を数多く手 がけ、『壬生義士伝〜新撰組でいちばん強かった男〜』(2002)でギャラクシー賞選奨などを受賞。『蜩の記』(2014)